744 :名無しさん@おーぷん 2017/12/27(水) 21:15:11 ID:hsx
父方の祖母は10歳の時に広島の原爆で両親を失い1年間の浮浪児経験を得た後15歳まで孤児院で育った。
しかし同い年で同じ広島で育ち、両親ともに健在で全く戦争の被害を受けなかった母方の祖母の方が明らかに苦労している。
仕事が続かないアル中の曽祖父のせいで、父方祖母は貧しい家庭で育ったので餓えや寒さへの耐性もあったのかも知れない。
父方祖母は浮浪児時代を「女の子だったので夜眠る場所には苦労したけどそれ以外は悪くなかった」と言っていた。
身なりの良い人に「昨日から何も食べてないのです」と訴えれば結構な高確率でお菓子や小銭をもらえたし靴磨きやたばこ売りも稼げた。
「靴磨きは戦前から物乞いで食べていたプロの浮浪児達が教えてくれた。親がタヒぬ前からやっていればよかった」だと。
1日働けばパンや素うどんなら朝と夕食べられたし服や毛布もちょっと頑張れば闇市で買えたらしい。
どうしても困ったら頑張って歩いて金持ちが多い町でゴミ漁りすれば使えそうなものが手に入った。学校はもともと嫌いだったそうだ。
745 :名無しさん@おーぷん 2017/12/27(水) 21:16:40 ID:hsx
孤児院に入院後もいじめや上下関係はあったけど大人は優しかったし3食食べれたし学校も毎日行かせてもらえて仕事も紹介してもらえた。
金はなくとも復興した、明るく賑やかな広島でそこそこ楽しい独身生活を謳歌した後祖父と結婚。
母方祖母は貧しい村の子だくさん農家で育ち、子守や農作業、家事の手伝いでほとんど学校にいけず。お菓子なんて1年に1回村長が村祭りにふるまってくれるおはぎだけ。
そもそも村にお菓子屋がないから菓子が食べたければ砂糖と小豆買ってきて自分で作るしかない。パンなんて村で見たことない。
服は兄弟のお古から使えそうな部分をパッチワークにしたつぎはぎ。
そもそも村人が現金を持ってないので小遣いがほしくてもアルバイトも出来ない。せいぜい近隣の家の畑仕事を手伝って現物報酬として収穫物をちろっともらうぐらい。
学校にはほとんどいけないまま15歳になるとすぐ町の工場に住み込みで就職したが、親にしょっちゅう給料の前借りをさせられた為、20歳ぐらいまで祖母が自由になる金はほとんどなかった。
挙句に曽祖父が「いい縁談だ。」と同じ村の7人もの妹弟と寝たきりのジジババがいる農家との見合い話を勝手に進められ、結納直前に祖母逃亡。
着の身着のまま夜汽車に乗って広島から神戸に上京。それから家族とは1度も会ってないらしい。
客観的に見てどっちが不幸な境遇だと思いますか?
母方祖母は時々「戦災孤児の苦労はせいぜい10年だけどド田舎の貧乏家庭に生まれて貧乏な家に嫁いだら終身刑だ」とつぶやいていた。
749 :名無しさん@おーぷん 2017/12/27(水) 21:28:59 ID:b74
>>745
それぞれ不幸だし苦労したと思う。こういうのを どちらがマシとか言うのは失礼だよ。
あと上京って東京に行くという事だからね。
750 :名無しさん@おーぷん 2017/12/27(水) 21:31:04 ID:hsx
>>749
でも若き日の写真を見ると母方の方が明らかに老け込んでるんですよ。
753 :名無しさん@おーぷん 2017/12/27(水) 22:20:12 ID:qW2
>>750
君が父方祖母に偏見もってんのはよくわかった
父方祖母さんは「一日働けば~」「ちょっと頑張れば~」って軽いことのように話していただろうけど大変なことだったでしょうよ
770 :名無しさん@おーぷん 2017/12/28(木) 11:03:11 ID:ya0
>>744>>745
どちらのおばあさんも苦労なさった。
どちらがマシとか比べられないよ。
母方祖母のほうが老けて見えるのは周囲の大人達との人間関係で精神的にしんどかったからかもしれないね。
でも、父方祖母の生い立ちも壮絶だよ。
それを明るく話せるおばあさんのポジディブな人柄が老けて見えないようにさせていたのだと思う。
ポジディブでない人が父方祖母と同じ境遇なら、老けて見てたどころか、大人になる前にタヒんでしまっていたかもしれない。